ヴィエリ君の歩み

知れば知るほど意外な男。

噛めば噛むほど味の出るスルメのような魅力がたまりません。


1973年7月12日午後4時、ボローニャで生まれる。(←ホロスコープにどうぞ)

父ロベルトはプロサッカー選手、母ナタリーはパリ生まれのフランス人。

「8ヶ月の早産だったの」(母ナタリー談)


−オーストラリア時代−

父の移籍とともに、4歳でオーストラリアに渡る。シドニーの郊外に住んでいた。

1978年9月1日、弟マッシミリアーノ(マックス)生まれる。

「小さい頃は背ばかり伸びてひょろ長い子だった」(父ロベルト談)

小学校Wetherill Park Public Schoolに入学。

ボボ中学生時代の有名な武勇伝。「はしかにかかった」と学校に電話して、90日間さぼりたおした。校長から親への電話でばれて、こっぴどく叱られたうえ罰として一晩車の中で寝ることになった。「家に帰ると実際クリスティアンがいた。人生でその時一度だけ、息子を殴った」(父ロベルト談)でも本人は懲りなかったらしい。

スポーツでは陸上、水泳、クリケットをしていた。強かったらしい。「よく言われるけど、ラグビーはそれほどしてなかった」(父ロベルト談)地元のクラブ、マルコーニでようやくサッカーを始めたのは12〜13歳の頃。

「ガムやキャラメルばかり食べてるものだから虫歯が絶えなかったわ。ミニカーが好きで集めてた」(母ナタリー談)

「初めて家に連れてきた女の子はエリカっていう同級生だった。14歳のときね。ミスイタリアみたいにきれいな子だった。今?いいえ、今は決まった女性はいないみたいね」(母ナタリー談、97年夏)


−プラート時代−89−90シーズン(C1)

出場機会はなし。

サッカー選手を志し、14歳で単身イタリアへ帰国。プラートの祖父母のもと、最初地元のサンタ・ルチアというクラブに、次にACプラートに入団。会長の使い走りをしながらサッカーを学ぶ。

両親が恋しくて夜泣いていたとか、とうとう一度オーストラリアに戻ったりとかいろいろ紆余曲折があったそうな。

16歳の彼。こんなでした(笑)


−トリノ時代−(90−91、〜92年11月)

「彼は17歳で、立派な体格と若者らしい無頓着さを持っていた。明日のことなんか考えずにプレーしていた。どこでもいいからポジションを取ろうとしていた。まだサッカー選手というよりは陸上選手のようだった」 Cerroniの談話。

「練習の後バールによく寄ってた。お気に入りは切り売りのピッツァとクラッカーのベーコンのせだった」「96年に彼がユーヴェの選手になってトリノに戻ってきた時、お忍びでここに来たんだ。2時間くらいここにいて、ピサ、ラヴェンナ、ヴェネツィア、ベルガモと彼がすごした街の話を聞かせてくれた」トリノファン御用達バールのバリスタNicoの談話。

「パルマでのプリマヴェーラデビュー戦でいきなりゴールした。そのシーズンは彼と一緒に優勝したし、最終節、アウェーのレッジーナ戦で4−3で勝った時はハットトリックを決めた」「仲間付き合いのいい男だった。率直で物事をはっきり言う性格で、今もそれは変わってないようだね」トリノユースの責任者(当時)のCozzolinoの談話。

「どんなやり方ででもゴールしていた。ある時モンツァで、50メートル以上のロングシュートを決めた。練習場のあるフィラデルフィアではアイドルだった」「トリノのオブザーバーだった父親が彼を連れてきた。彼はユース監督のRampantiと親しい友人だった。オーストラリアから帰国してからプラートのアリエビで何ヶ月かプレーしていて、それからトリノに移籍してきた。大きな子供で、おとなしく、愛想はよかった。最初はCorso Re Umbertoの、次に事務所近くのCorso Vittorioの寮に住んでいた。」トリノユース秘書(当時)Angelo Zambruniの談話。

90−91シーズン(A)は出場機会なし。

91−92シーズン(A)6試合1得点

コッパ・イタリア1試合出場1得点

1軍入りを持ちかけられて、「嬉しいけどプレーする機会が減るのはいやだ」とプリマヴェーラとのかけもちを選択。土曜にプリマヴェーラで試合して日曜に1軍のベンチ入りという2足のわらじ。

1991年12月15日、フィオレンティーナ戦でセリエAデビュー。

1992年5月9日、対ジェノア戦でセリエA初ゴール。

「ヘディングだった。今でも忘れられないビューティフルゴールで、チームも4−0で勝った」父ロベルトの談話。

92年5月、プリマヴェーラでスクデット獲得。優勝のかかった、レッジョカラブリアでの最終戦。「試合前のヴィエリは落ちついていた。楽しそうだった。これからピクニックにでも出かけるみたいにみえた。ピッチに入るとボボはあっという間に3点も決めた。」ピッチの外ではボボは優しくて内気な大きな子供だった。「彼の変な話し方を覚えてるよ。トスカーナ弁とオージー訛りのミックスだった。彼はクラブの寮に住んでた。記憶違いでなければパンカロと同室だったはず。彼の一番の趣味は映画だった。午後中ずっと部屋にこもってTVの前でビデオの映画を見てても平気な奴だった。もちろん英語のだよ。彼のインタビューをいくつか読んだけど、今も変わってないみたいだね。今はイタリア語のも見てるのかもしれないけど。(後略)」トリノユース時のチームメイト、Sandro Coisの談話。

92−93シーズン(A)1試合出場無得点

コッパ・イタリア1試合出場無得点

92年11月にピサへ貸し出し


−ピサ時代−92年11月〜93シーズン(B)

18試合出場2得点

兵役中。コンディションを崩し、一時体重が100キロあったとか。


−ラヴェンナ時代−93−94シーズン(B)

15億リラでトリノからラヴェンナへ移籍。

32試合出場12得点

コッパ・イタリア1試合出場無得点


−ヴェネツィア時代−94−95シーズン(B)

35億リラでラヴェンナからヴェネツィアへ移籍。

29試合出場11得点

コッパ・イタリア出場なし

この時点の記録でB代表4試合1得点。ユース代表11試合5得点。


−アタランタ時代−95−96シーズン(A)

45億リラでヴェネツィアからアタランタへ移籍。

トリノ時代の恩師モンドニコさんに呼ばれてめでたくセリエAへ復帰。

その年のパニーニがこれ。ぷぷぷ(笑)

ユーヴェで鬼トレーナーのヴェントローネさんに絞られる前。今と比べて細いです。

19試合出場7得点

コッパ・イタリア2試合出場無得点

しばらく試合から干された時期があり、ふてくされたヴィエリ、ある時土曜の練習をさぼって彼女とデートに。後でばれてチームメイトと険悪になりかけたらしい。バカ。


−ユーヴェ時代−96−97シーズン(A)

90億リラでアタランタからユヴェントスへ移籍。(移籍金倍増)

23試合8得点。背番号15。この時期A代表デビュー。

コッパ・イタリア5試合出場1得点

CL10試合出場6得点

スクデット獲得。トヨタカップで来日もしましたが出番はなし。


−アトレティコ時代−97−98シーズン

340億リラでユヴェントスからアトレティコ・マドリーへ移籍。移籍金約4倍に高騰。

24試合出場24得点。リーガ・エスパニョーラ得点王に輝く。

UEFA杯7試合出場5得点、準決勝でラツィオに敗退。

ヒル会長にかわいがられ、「王侯のような暮らし」をしていたそうな。

マドリード中のディスコを荒らしたディスコキング・夜遊び大王だったとか。

その件について本人は否定したり肯定したり。どっちなんだ。

特筆すべき、第30節サラマンカ5−4A.マドリードの1戦。

ボボ君4得点。しかしなんと5点とられて負け!「4点もとって負けるなんて信じらんねー!#」


−ラツィオ時代−98−99シーズン(A)

開幕直前に480億リラでアトレティコからラツィオへ移籍。背番号は32。

22試合出場12得点。

CWC獲得。4試合出場1得点

コッパ・イタリア2試合出場1得点

98年9月24日コッパ・イタリアコセンツァ1−2ラツィオで負傷。

99年1月6日セリエA第15節ボローニャ0−1ラツィオで復帰いきなりのゴール&決勝点。


−インテル時代−99−00シーズン(A)

サッカー界史上最高額の900億リラでインテルへ移籍。なぜかまた背番号は32。

99年8月29日セリエA第1節インテル3−0ヴェローナでセリエA初のハットトリック達成。

また似合うんだな、このレトロくさい丸首ユニが。

−続く−


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